雨に咲く花に

プリティーリズムとか、その他について書く奴です。

遠き恋人は月にて会えるか

 先に言っておきますが今回の記事はポエムです。

 

 ところでそのポエムという単語、及びそれが持つイメージについて一家言なくはないのだけれど、今はそういう話はしない。

 

 さて、この記事がどのくらいポエミィかというと、今自作のキャンドルの炎だけを頼りにこれを執筆している、というくらいだ。

 尤も、キャンドルの炎だけと言いつつどう考えてもディスプレイから放たれる光の方が明らかに光源としての役割を果たしているのだけど、どちらにしたって目に悪いのに変わりはない。

 大体のロマンチックは身体には悪い。

 

 表題の件であるが、これはどういう意味か、説明しておこう。

 

 例えば、会うのも難しい程遠くに住む恋人同士が一組、あったとしよう。

 彼らは当然、お互い会いたいと思いながら日々を過ごしている。しかし、前提条件に書いたようにそれは難しい。

 なれば、実際に会うことまではできないとしても、せめて何らかの感覚、感情等々を共有して、まるで共にあるかのような思いに浸りたいと、そう願ったとして何ら不自然はあるまい。

 

 そして、ここで現れるのが、月なるものである。

 

 月というものは、ロマンチックなもの、と言われて直ぐにこれを思い出す人も少なくはないであろう程度には重要なロマンチック・ファクターであり、太陽と対とされたり、星と並べられたり、はたまた満ち欠けの様子を何かに例えられたりなど、古代から現代に至るまで何億とロマンチックな場面に登場してきた強者だ。

 何故そこまで強力で居られるのかと言えば、まぁ一日の中で最も感傷に浸るのに向いた時間である夜に現れるものだからとか、そういう説明がつくのだろうか。

 そもそもロマンチックに理由なんてないけれど。

 

 月を見よう、と二人はどちらともなく言った。

 同じ日、同じ時間に同じ月を見れば、それはきっと隣で月を見ているのと同じことだろうと。

 いわば、月を通して二人は会えると、どちらもがそう考えた。

 

 ここまでは、非常に微笑ましく、そしてロマンチックな甘い思いつきだ。

 誰もが羨み、真似たくなるような、そういうタクティクスだ。

 

 

 しかし、実際、こうなってしまったら?

 

 片方(この場合、なんとなく男側ということにしよう)の住処で雨が降り、約束の日に、男は月を見ることができなかった。

  恐らく女は、律儀に約束を守り、今この瞬間においても月を見て、何かを感じているだろう。或いは、それを自分(つまり男)と共有しているような、そういう気分に浸っているだろう。

 ――月を通して会えたような、そういう気持ちでいるだろう。

 男は、女を裏切ってしまったような気分で、仕方ないこととはいえ女との約束を破ってしまった罪悪感で一杯になる。

 そんな折、女から連絡が届く。(古くを想像するなら手紙、現代ならLINEやメールだろうか)

 『綺麗な月でしたね』と。(ここの文言は、月に言及さえしていればなんでもいいのだけれど)

 さて、男はどうすべきなのだろうか。

 

 『同じ時間に同じ月を見ているだろう』と思い込み、且つそれによって会っているかのように、隣にいるかのように感じて、そして共感さえ求めてくる女に対して、男は事実を告げるべきなのだろうか。

 或いは、『そうだね』と見てもいない月の感想を、女と共有すべきなのだろうか。

 

 どちらであっても、何かしら問題があって、何かしら正義があるように思える。

 どちらを選ぶことも、或いは間違いなのかもしれない。

 そんな状況で、男はどうすべきなのか。

 どうすれば、二人は『月にて会う』ことを果たせるのか。

 

 さて、私がこの問題に完全な解決をもたらせるとは、考えていない。

 しかし、『月にて会う』ことを果たす、それを至上目的とした場合の部分解ならば、提案することができる。

 

 その部分解とは何の捻りもないアンサーであって、退屈なものなのかもしれない。しかし、一人のポエマーの思考実験の結果としてのそれ出来れば聞いて欲しい。

 

 見えることのない月にて、男と女が逢瀬を果たすために男が選ぶべき行動。

 それは、『綺麗だね』と返す、である。

 つまりは結局、嘘を吐く、ということなのだが、しかしここで大事なのは、男は決して『女を傷つけないために』嘘を吐いてはいけないということだ。

 或いはそもそも、嘘でないとすら言える。

 綺麗だったのが、月でなくて、雨の降る夜空であったとか、そういうことでもいいのだから。

 

 つまりなにかと言えば、ここで重要視されるべきなのは、『月を見た』という事実ではなく、『同じ時間に月を見て、そこで二人が会おうとしていた』という思いなのではないか、ということに尽きる。

 

 『月を見た』『月が綺麗だった』、そんな事実は、些細どころか、最も重要視すべきでないものの一つであるとさえ言える。

 というのも、そもそもこの二人は、『事実として会おうとした』のではなく、『思いを交わすことを逢瀬としようとした』のである。

 つまり元々重要視されていたのは、『思いを交わせるか』であって、事実などというものの介在は一切ない。

 

 『お互いが、同じ時間に、相手のことを思って、何かをしようとした』。

 それが、この二人にとっての『会う』であるのだ。

 

 そもそもの話、実際隣に居て、空間、或いは物質として同じ空、月を眺めたところで、それが『同じものを見て、同じことを思う』かと言えば、そうではない。

 かたや月そのものの輝きに心奪われ、かたや月にかかる雲の儚さに思いを寄せているかもしれない。総じて『綺麗だ』と表現して、同じことを考えていると錯覚しているに過ぎないかもしれない。

 しかし、その詳細が全く同じではないからと言って、二人が心を交わしていないかと言えば、そうではない。

 二人が共に『向こうも同じことを思っているだろうか』などと互いに思い合っているならば、それは心を交わす、ということであり、『遠き恋人』達の言う『月にて会う』ことである。

 

 さて、余りにも回りくどくなってしまったところで、(とは言え途中で何度も直接的に言っている気がするが)私が結局言いたいこと、というのを記して終わろう。

 

 恋人同士が、近くに居るにせよ、遠くに居るにせよ、それぞれが全く同じ感情を抱くのは難しい。

 だから、無理にそうしようとなどしなくてもいい。

 実際は違う思いであるとしても、二人が『心を交わしている』と思えるのならば。

 

 ――さて、こんなところだろうか。

 自作したろうそくの蝋は全く減る様子を見せない。

 それと、今日も月が綺麗だった。

 

 全く見えてなどいないけれど、それでも綺麗な月だった。

理系は喧嘩を売っている訳ではない

(※当記事における文系、理系というワードやそれに付随させているイメージなどはあくまでも当記事限定のものであって、便宜的に用いられているに過ぎない。つまり一般的な文系理系が全てこうであるとか、文系理系とはこういうことだとか、そういうことを決めつける気は一切ないし、読者諸兄においてもそのようなことは細分たりとも思わないで頂きたい。誠に勝手ではあるが、執筆者の語彙の不足の招いたことであり、全く申し訳ない)

 

 まずは下のツイートを見て欲しい。

 

 

 当記事では(今までの趣向と違い)、上のツイートで示しているような『喧嘩を売ってるようにしか聞こえないけどそれは理系特有のコミュニケーションかもしれない』ということについて、実際にあったかもしれない例と理系思考の解説を交えて説明していきたいと思う。

 

 

 

理系の子供と文系の母親の会話

 ここに、理系の子供と文系の母親が居たとしよう。

 母親がキッチンで料理をしていると、ふとトイレに行きたいと思った。(料理をするのが母親だという固定観念の押し付けだというご指摘に関してはご容赦願いたい。他意はないし全く別の話題であるが私は男性の家事参入を促進すべきだと思う)

 丁度火を扱っていたので、そのまま無人にする訳にもいかない。

 火を消そうか、と思っているところに子供が通りがかったので、こう頼んだ。

 

『火、見てて』

 

 子供に火の番を頼んでその間に用を足そうと、そうしたのだ。

 すると、子供はこう言った。

 

『見て、どうすればいいの?』

 

 

 ――さて、この例において、もし母親側に感情移入をしてらっしゃった方が居たとしたら、その内の殆どは子供の発言に何かしら苛立ち等を覚えたのではないだろうか。

 しかし、子供は母親を苛立たせようとした訳では勿論ないし、何なら母親の料理を手伝おうという気は満々だったりするかもしれない。最低限の料理の常識も持っているし、母親の『火、見てて』という発言が『火の番をしてて』という意味だということも解っている。

 ではなぜ、『どうすればいいの?』という言葉が口をついたのか。

 

 

母親側・子供側の思考

 『どうすればいいの?』という言葉を子供が捻り出すまでに、実は非常に深い考察と母親に対する配慮があった、ということだけはまず説明しておきたい。

 そしてそもそも、『どうすればいいか』を全く何一つとして推測できない訳でもない

 しかし、母親の『火、見てて』という余りに簡潔な指示には、子供にとって、以下のような要素が不足していたのだ。

  • 沸騰したら火は止めるべきか?
  • 止めないとしたら弱めるべきか?
  • 止めるべきとしたら止めた後何らかの処置が必要か? ……等々

 

 実際に想定している質問はもしかしたらそれ以上にあるかもしれないが、一先ずは。

(ところで上の箇条書きを見て解る通り、子供は流石に母親から『火を見続けること(Be seeing fire的な)』だけを求められている訳ではないと、理解していることを覚えておいていただきたい)

 そんな訳で、子供は曖昧な部分が余りに多いため、母親に対して『火を見る以外にすべきことは?』という意図で質問をした。

 

 母親からすれば(例えば火にかけられているもの、というのが水を張り、大根が入った鍋だとして)、沸騰したら火を弱めてもいいし、正直弱めなくても問題はないし、そして多分沸騰したら鍋の蓋をズラすくらいのこともしてくれるだろう、という思惑があったと思う。

 つまり、子供が料理に対して少なくとも最低限度の知識は持っていて、その知識を活用して対処してくれるだろうと、そう思って『火、見てて』と依頼した訳だ。

 しかしそこで『どうすればいいの?』という質問が飛んでくる。

 恐らく母親はショック、或いは困惑しただろう。

 何故か。『普通誰でも解ること』を『自分の子供が解らなかった』からである。

 そのショック、困惑を、或いは用を足そうとしているのに余りに初歩的な質問をしてくるという事実又は『火、見てて』という表現をあざ笑うかのような質問に対しての怒りを、子供にぶつけることもままあるだろう。

 

 そして子供は傷つく。

 質問して当たり前のことを、必要なことを質問したら、怒られるのだから。

 ここで思い出して欲しいのは、子供は何も、何をすべきか全く予想ができなかったわけでも、ましてや母親を傷つけようとした訳でもないということである。

 寧ろ、子供が質問をしたのは『一般的にはこうすればいいのだろうけれど、もしかしたら母親は普段と違うことをしているかもしれない自分の知らないことを知っているのかもしれない』という思いからなのだ。

(考えてみて欲しい。例えば貴方が掛け算を習いたての小学生だとしよう。ある日突然小学五年生ということにされて、大好きな先生に、最小公倍数の問題を解け、と言われる。勿論そんな用語は知らない。だから、『どうやったら解けますか?』と質問したら、怒られるのだ。『何故そんなことをわざわざ訊くのだ!』と。

 ならば自分でやり方を予測するしかない、ということで、4と5なら20、2と3なら6が答えになることから、なんだ掛け算の答えのことなのか、と予想してやってみると『違うだろ! そんなやり方な訳ないじゃないか! なんで解らない!』と叱咤される。

 この例での子供は、まさにその気分だ。)

 

 ――そう、考えてみれば当然のことで、母親が子供にどうして欲しいかなど、言わなければ解る訳がない

 

 さて、長くなってしまったため、多少の齟齬こそ発生し得るが、極めて簡潔に両者の思考をまとめたいと思う。

 

 母親『子供は多分こうしてくれるだろう』

 子供『こうするのがいいんだろうけど、違うかもしれない』

 

 上で解るように、決して、お互い傷つけ合うような要素というのは一切持つつもりはない。

 しかしそれでも、トラブルは起きてしまう。

 それは、何故なのだろうか。また、解決する方法はあるのだろうか。

 

この例における解決方法とは

 非常に簡単である。

 そもそもこの問題の原因にあるのは、決して文系と理系の差異などではない。

 勿論それも理由の一つではあるが、尤も悪とし滅すべきな要素としての『原因』は、

この親子がディスコミュニケーションだったことである。

 『火を見ていて』という指示が取り敢えず『火事にならないよう監視していて』という意味が含まれていることに関しては認めるとしても、沸騰したらどうとか、そういうことについては場合によりけりであるので、そこまで任せたいのであれば、それ相応の指示を付け加えるべきである。

 

 つまり、母親にもしこの例について何か指摘してやれ、というのであれば

『指示は指示の体裁を整えて出せ』

 と言う外ないだろう。(外なくはないが、この記事においては)

 

 そしてもし子供についても同様にするならば

『何か間違っててもそんな適当な指示を出す方が悪いんだから、適当にやってしまえ』

 とでも言うだろうか。

 或いは

『「大根でも煮てるの?」みたいな訊き方なら怒られないよ』

 とか。

 

ティーブレイク:アスペルガー症候群

 もしかしたら、ここまでを読んで、『なんだ、理系というかアスペルガー症候群なんじゃないか?』と思った方も、もしかしたらおられるかも知れない。

 確かに、今までに示してきた『理系の子供』が『相手の思惑を予想しそれに合わせての行動』をしなかったことだけを見れば、アスペルガー症候群的にも見えなくはないかもしれない。

 しかし、それは違う。

 何が違うのかと言えば、そもそもこの例において子供が教科書的なアスペルガー症候群兆候を示すとしたら(実際には人によって様々である)、会話はこのようになる。

 

母『火、見てて』

子『解った(火をずっと見てればいいんだな)』

 

 ――何が言いたいのかと言えば、今までに示してきた『理系の子供』の思考は『母の指示では曖昧すぎる』という判断から、『言葉の裏、行間を読んでの行動』を回避したが、アスペルガー症候群では『行間を読む』ということ自体が難しいのである。

 因みにどちらにせよ母親の明確な指示によって解決できる問題ではあるのだけれど。

 

 アスペルガー症候群、或いはその疑いがある人、或いはそうでなかったとしてもあらゆる人がもし、自分の指示に額面通りにしか従ってくれなかったとして、それ自体を諫めてはならない。

 何故ならそういう指示しか出せなかったことが悪いのだから。

 

 

最後に

 まぁここまで書いてきた中で言う『理系の子供』の思考の参考にしてるのは自分であってだから正直子供側目線な記事になってるな感は否めないしでも自分の有利になるようなこと書いてもいいじゃん的なパない。

 因みに私自身、相手、つまり母親側を信頼していたら『大根煮てるの?』と訊いたりするしなんなら何も訊かず予想で行動する。

 なんでそうするかって、そりゃ信頼してるから。

 もしいつもと違う点があれば向こうから言うだろうな、とか。

 

 あと信頼してない場合に何でそんなに質問したがるのかと言えば、責任を完全に逃れたいからです。

 

 質問というのは究極の話責任逃れの手法として使える訳ですね。この場合の質問というのは実質的には確認である訳だけど。でも『こうすればいいんですよね?』と言うよりも『こっちとこっち、どっちをすればいいですか?』と訊いた方が責任からより強く逃げられる気がします。その分相手も不快感とか面倒臭さを覚えやすいですけど。

 

 さぁてこの世の中というのは今まで書いてきたような『理系』にとって生きにくい世の中です。

 何故か。

 そういう性質が『面倒臭い』と評価される世の中だからです。

 尤もこれは効率という観点から見て仕方ないと言えば仕方ないかもしれませんが。

 更に言えば、もしこの世の中がそうではない世の中だとしても、結局理系にとっては生きにくい世の中なのかもしれません。

 何故かと言えばまぁ、そもそも理系というのが生きにくいものだからです。

 生肉を啜って生血を貪る。いきにくいいね。

 

 以上です。

プリティーリズムに出てくる曲はヤバい

(注:口語体と文語体が不安定です)

 

『プリズムショー』と『マイソング』

 プリティーリズムの魅力の大きな一つとして欠かすことができないのは、音楽、曲だろう。

 それも、BGMやOP,EDのような意味でではなく(もちろん、それだって素晴らしいが、ここでは一先ず)、作中で登場人物たちが歌い、踊るための曲だ。

 所謂、作中曲とも呼ばれるそれらは、プリティーリズムの魅力をより一層引き立て、また決して小さくはない一部分として存在している。

 

 そもそもプリティーリズムのストーリー概要、というか世界観として、『(主として)少女たちが、プリズムショーと呼ばれるフィギュアスケートのような競技において、それぞれのショーを磨く』というものがある。

 因みにこれは、レインボーライブのみならず他シリーズにおいても凡そ同じと思ってもらってもいい。

 

 その『プリズムショー』のBGMとして、少女たちは、多くの場合『マイソング』と呼ばれる、自分に合った(自分に合わせて作った、作ってもらった)』曲を歌いながら踊る。

 そのマイソングが、このアニメの醍醐味の一つなのだ。

 

 たとえば、先の記事でも紹介した、メインヒロイン彩瀬なるのマイソングは『ハート❤イロトリ❤ドリーム』という曲名である。私はこの曲がお気に入りなので、当記事では一例としてこの曲を紹介させてもらう。

 

――だがその前に、なるというキャラクターについて、軽くではあるが紹介させてもらおう。

 

彩瀬なる

外見 http://www.pixiv.net/tags.php?tag=%E5%BD%A9%E7%80%AC%E3%81%AA%E3%82%8B

 

プロフィール

 中学2年生。趣味は何でも可愛くデコってみること。好物はホットミルク。属性はラブリー。

 初め、プリズムショーを自分でやったことはなかった。

 口癖は『ハピなる』『なんとかな~る~』など。

 

個人的所見

 とにかく『可愛い』『ラブリー』をテーマにしたような少女。ちっちゃくて可愛い。

 両親に愛されまくって育った感じのピュアすぎる子。常に目がきらきらしていて(それこそ心のきらめきが常にあって)、小さい身体ながらに大きなハート(曰く、心は大きく太平洋)を持つ。なんというか女児向けアニメ。

 登場人物のほとんどに対して好き好きオーラを放っていて、カップリング脳で見るとちょっと大変。

 自分の名前を口癖にする(でも一人称は『わたし』)辺り、なんていうかハピなるな子。

 見てると元気が出る。ハピなる。

 

 

 ――と、まぁこんなキャラです。

 で本題はその彩瀬なるのマイソングがどんな曲か、ということ。

 

 はっきり言って、電波ソングです。

 

 まず初っ端から

 

ハーピーハーピー ハピーなるー♪』

 

 と来る。

 うわぁもうこれ彩瀬なるのマイソングじゃん。それ以外になるわけないじゃん。

 と、初っ端で理解させられてしまう。

 因みにメロディまでラブリー。

 

 だが、この曲はただ電波的なだけではない。そうであったら、わざわざ紹介などするはずもない。

 私は、この曲に大きな魅力があると思ったから、こうして紹介する例として選んだのだ。

 

 この曲の歌詞に

 

隣の友達と 手をつないでみたら そのまた隣とも つながりました

 

 というものがある。

 

 なんて、なんてきらめいているんだ……!

(プリズムショーは、なんて素晴らしいんだ……!)

 まるで『みんなのうた』のようだとすら言えるじゃないか!

 

 しかも、

 

遠くに見えてる虹も すぐにね 絶対届くよ

 

 と歌詞は続くのだ。

 今すぐにでも隣の人と手をつなぎたくなってしまう。

 

 それだけではない。

 私は、こんな文言にめろめろにされるような人間ではない。

 勿論この後にさらにこの曲の魅力を紹介するつもりでいる。

 しかし、しかしである。

 一先ずは、先ほど引用した歌詞をしっかりと意識に留めておいてほしい。

 この、キラキラしていて希望に満ちた歌詞を留意しながら、次に見て欲しい歌詞は、こちらだ。

 

 

 スキキライなしだと 笑っていたけれど

              一番好きなこと なんだったっけ?

 

 ――どうだろう。

 この歌詞を見て、感じることはないだろうか。

 勿論、読者の方々が何を感じるかではなく、私がどう考えているか、私自身が読者の方々どう考えて欲しいかを記すのが、この記事だ。

 しかし少しの間だけでいい。

 自分なりの解釈や、読者ご自身にとってのこの歌詞を、考える時間をいただきたい。

 

 ――さて、ではそろそろ、私が考えるこの歌詞について、説明させてもらおう。

 

 まずは、彩瀬なるというキャラクターについて思い出して欲しい。

 先ほど記した通り、なるはラブリーを形にしたような、希望にあふれた少女。

 そんな彼女が、『一番好きなこと なんだったっけ』と自分に問うのだ。

 ほんの少し前には『隣の友達と手をつないだ』ことや『虹に届く』なんてことを歌っていた彼女が。

 

 友達と手をつなぐこと、さらにそこから友達の輪が広がっていくこと、それによって虹にも手が届きそうだ、という気持ち。

 そしてさらには『ハピなる』という感情。

 

 それらを十分に知っているはずの彼女が、実は自分の好きなことさえ、解らなくなってしまう。

 

 友情や幸せは見つけられる彼女にも、自分の好きなことを自分で決める、そんなことが難しいと気づく瞬間が来る。しかし、難しいそれは、何よりも大切なことである。

 

 ――そんなメッセージを、彼女は明るい曲調で歌う。踊る。

 

 勿論、歌詞の続きでは、解らなくなってしまった『迷子の私を さぁ今すぐに 探しにいかなきゃ』とポジティブに歌っている。

 

 

 いまさらな話であるが、プリティーリズムというアニメは主として女児をターゲットにした女児向けアニメである。

 彩瀬なるというキャラクター、そして彼女のマイソングのほとんどの部分は、女児にウケるような明るく可愛らしい雰囲気で形成されている。

 だが、そんな中で『一番好きなこと なんだったっけ』という、誰しもぶつかり、自らに答えることも難くなってしまう可能性のある、深く広い問いを投げかける。

 

 私は、このハート❤イロトリ❤ドリームという曲は、『キャッチーなメロディと導入で心を掴んでから、何よりも大事なメッセージを送る』という構成になっているのだと考えている。

 

 

 ――さて、長くなってしまったが、本題はプリティーリズムに出てくる曲はヤバい』というものだ。

 先ほど紹介させていただいたハート❤イロトリ❤ドリームのほかにも、数多くのマイソングが作中に登場する。

 そしてさらに、それらのマイソング、またそれを歌うキャラクター、或いはマイソングの製作背景にさえも、それぞれの背景やストーリーがあって、それがまた、それぞれのマイソング、キャラクターについて深く考えさせられる要因にもなっている。

 その奥深さは、いくつ記事を割いても足りないほどだ。

 

 いくつかは長短問わず紹介していきたいとも思っているが、全て出来るか、と言われればイエスとは答えがたい。

 なのでもし、この記事においてプリティーリズムの曲に関してご興味を持たれた方には、ぜひともプリティーリズムの鑑賞を通して自らさまざまなことを感じていただきたい。

 当ブログで紹介できなかった曲やストーリーについて、また、当ブログとは違った視点からの解釈、違った解釈等々、それこそ十人十色あることだろう。

 またもし、それを誰かに伝えたい、という方については、その伝え方、伝える方向について、私に教示する、という選択肢をぜひとも加えて欲しい。

 

 色んなことを、色んな思いを、私は知りたい。

 

 なぜなら私も、彩瀬なるのように、ハートを色とりどりに、夢のように飾りたいから、だ。

Pretty Rythmに出会って人生がキラめきはじめた(1')

前回のあらすじ:長い。

 

今回はもう頭悪い説明します。

まずPretty Rythm(プリティーリズム

これ何かっつーと、女児向けゲームだったりアニメだったりするやつです。

その中でもアニメの『プリティーリズム レインボーライブ』について語るね、って記事です。

略称としては『プリズム』(公式推奨)、『プリリズ』(一般的)、『PR』などがあります。

 

キンプリ、って訊いたことありますか?

Twitterとかで話題になってる『KING OF PRISM』のことです。

もし知ってる方がいたら、このプリティーリズムがキンプリの元ネタ(世界観元)だよ、と説明すれば、多少興味を持ってもらえるでしょうか。

 

まぁそんなプリズムの何が凄いかって話をする前に、このアニメの主題、テーマだと私が思ってる言葉を一つ紹介します。

 

それは、『心のきらめき』というものです。

 

心のきらめきって何か、と言われるとまぁ、楽しい、とか幸せ、とか、ウォオオオ!とかそんな感じのです。心が輝くやつ。

このアニメでは、見どころの一つとして、『心のきらめき』をジャンプで表現する『プリズムジャンプ』なるものがあって、それがまた個性豊かで面白いのですが、まぁそれはさておき。

そのプリズムジャンプ以外にも、この心のきらめきという言葉は何度も現れ、また言外にも何度かメンションされてます。

 

例えば、メインヒロインの彩瀬なる(キャラ紹介はその内します)が、謎の多い少女りんねに向かって、『幸せ』という言葉を説明するシーン。

 

な「幸せ……ハッピー……うーん……

  私はホットミルクを飲んでるときに『幸せ!』って感じるなぁ」

 

り「……(ッパァアア」

 

 うわーもう、心きらっきらっすわこれ。

 

まぁ、こんな感じです。

 

で、このシーンの他にもいくつものシーンで『心のきらめき』の大事さを語ったり、感じたり、知ったりする描写がいくつもあって、中には見ていて辛いものもあるのですが(失って大変な目にあってその後心のきらめきを知って復活、みたいなアレ)、まぁなんというか、それを見ていたら

 

『心をきらめかせるって、なんて素晴らしいんだろう』

 

とそう思った、っていうか思わさせられた、って話です。

単純。

 

例えば、ですよ。

 

この前私はキンプリの応援上映に一人で行ってきました。

知らない方のために説明すると、応援上映っていうのは、映画の最中にライブのコールみたいなのを入れたりするやつです。

って言っても、決まり切った流れがあったり、流れを破るとなんかアレな雰囲気になったりする感じじゃなくて、割とそれぞれ好きに楽しんで、みたいな雰囲気なのが殆どです。

 

で、その場でですね、客席の中央部辺りに、恐らく既に何度も来ておられるであろうベテランの集団さまがおられたのです。

彼女たちの応援は本当にすごくて、聞いたことのない統率のとれたコールを入れたり、はっきり、堂々としたヤジを入れたり、『応援上映って凄いな!』と初めて来た人に思わせるものでした。

 

ところが私は、一人で来ていたのもあって、その団体さまとは違う場所にいる、という疎外感のようなものを半ば感じ始めまして……

 

しかしそのとき、思ったのです。

 

『あの人達の心は、きらめいている』

 

って。

そしてこうも思いました。

 

『自分は、どうなの?』 

 

私はイエスと答えられませんでした。

少なくとも、その瞬間においては。

 

だから、心をきらめかせようと、そう決めたのです。

心がきらめくように楽しまなきゃ、と、そう気付いたのです。

 

私は、団体さまに負けないような声を出して。

統率では負けても思いでは負けない、とばかりに気持ちを込めて。

 

プリズムスタァ達を、応援しました。

 

 

――その時に、私の心は、やっときらめいたのです。

そして、何よりも。その時からの私は、楽しかったのです。

 

プリティーリズムを知らなかった頃なら、中学生の少女たちから色んなことを教えてもらうまでなら、今までなら、

『折角自由な空気が楽しいのに、そういうノリ持ち込むなよ』

なんて思いながら、もしかしたら憮然としながら続きを見て、

終わった頃にはTwitterに愚痴を記していたかもしれません。

 

でも、今は違います。

心のきらめき、という言葉、概念、気持ち、そしてその大切さを知った今、私はそれを追い求め、また追い求めること自体を心のきらめきとして、

 

――楽しく、心をきらめかせながら、生きています。

 

 

恐らくこの記事では、『何もかも何のことかわからない』という向きが多いでしょう。

でも、どうか。

この記事によって、或いは他の媒体によって、プリティーリズムやキンプリに興味を持たれた方。

是非とも、ご覧になってください。

 

プリティーリズムはレンタルビデオ店、また、各種アニメ配信サイト(違法アップロードサイトはダメですよ)などで見ることができると思います。

キンプリは、全国の映画館で封切から三ヶ月程経った(執筆当時)今でも上映しています。

 

これからも魅力、私が感じた、考えたことなどをこのブログで記していきたいと思っています。

観ようかどうか迷っている方に、観よう、と思わせられるような記事に出来たらな、と思います。

 

繰り返しになりますが、是非ともプリティーリズム、キンプリを観てください。

私という個人においては、間違いなくオススメです。

 

この記事や、プリティーリズム、キンプリ等に関してご質問などございましたら、コメントかTwitterの方(@wotanoshimi)などに御寄せください。

微力ながらもお応えできる範囲で、ではありますが、喜んでお応えさせていただきます。

 

読んでいただき、ありがとうございました。

ハピなる。

Pretty Rythmに出会って人生がキラめきはじめた(1)

 表題のような内容について語る前に、まず二つ『表題について』言わせていただきたい。

 表題について、というよりも『Pretty Rhthm』という単語について、である。

 『Pretty  Rhthm』自体については、後で語るので、まずは単語としての『Pretty Rhthm』。

 

 まず一つ。

 子音が少ない。

 

 次に二つ。

 『Pretty Rhthm(プリティーリズム)』、略して『プリズム』って、ちょっと出来過ぎてないか?

(これについては下においても説明する)

 

 以上。単語自体について記したので、いよいよ『Pretty Rhthm(以下PR)』について。

 

(とは言え、直ぐに本題に入る訳ではない。暫くPRについての説明や、当ブログにおいての扱い方の説明を長々とするので、必要ないとご判断された方については、『ここまで』とした青文字までスクロール願いたい)

 

 そもそもこのPR、発端としては、

タカラトミーシンソフィアが共同開発した日本のアーケードゲーム

  (Wikipediaより引用)

 

 なのであるが、当ブログに於いては、そのアーケードゲームの世界観とリンクした同名のアニメシリーズのことを差す、ということとする。

 

 アニメとしてのPRでは、その主題の後ろに『オーロラドリーム』や『ディアマイフューチャー』、『レインボーライブ』といった言葉が続き、それぞれ世界観を(一部)共有した別シリーズのアニメである。

 

 中でも、当ブログにおいてはアニメPRの第三作目である『レインボーライブ』について多く言及することが予想されるので、断りなくPRと表記してある場合には、アニメ『プリティーリズム レインボーライブ』のことを差す、ということとする。

 

 また、略称としては『プリズム』を公式が推奨しており、俗的に『プリリズ』とも呼ばれている、という情報も付け加えておこう。

 

ここまで

 

 さて、必要な説明はまだある気もするが、ご挨拶も省いた以上、それ以外についても省くべき点を省くことが最も合理的であろう筈なので、本題に入る。

 

 本題、とは

Pretty Rythmに出会って人生がキラめきはじめた

 ということである。

 

 PR中の多くの場面に於いて、言外に、或いは明瞭とした言葉を以て語られていることとして、

『心のきらめきを常に持て』

 というものがある。

 ストーリー中においても

  • 心がきらめいたから、何か行動を起こした。
  • 心のきらめきを失ってしまい、失敗してしまった。
  • 心のきらめきによって、大事なことに気付けた。
  • ジャンプしたら心のきらめきが周囲をファンタジーに彩った(無限に増えてハグしてみたり、花火打ち上げてみたり、山一つ薔薇だらけにしたり)。

 等々の描写が見られる。

 それは、深いことを考えず、単なる消費者として、思考を止めてぼけーっとこのアニメを見ていたとしても、きらめき、輝きという単語についての印象を何かしら覚えざるを得ない程である。

 

 さて、もしもPRを見ていらっしゃらない方がこの記事を読んでいるならば、ここで一つの疑問が湧かないだろうか。

 

 『心のキラめき』とは、一体何なのだ、と。

 勿論、この言葉について明瞭かつ確定的な説明ができるとはおこがましくも思ってなどいない。

 だから、勿論説明するとしても、私の個人的な考え方を披露させていただくだけに過ぎないのだが、よいだろうか。

 

 私の考える、このアニメの中で描写されている『心のきらめき』、とは

 

 ――――ワクワクする心、燃えるような心、思わず歩き出したくなるような心……そういったもの、全て――――

 

 である。

 例えば、『今日はいつも見てるアレの続きが公開される』と考えているとき。会話が弾みに弾んで楽しくて仕方ないとき。美味しいものを食べたとき。朝目覚ましが鳴る前に起きることができたとき。教科書を開いたら丁度今日やるページだったとき。授業が早く終わったとき。なんとなく見上げた空の雲が、なんとなく綺麗だったとき。テレビのコーナーが自分好みだったとき。何かをやっと完成させたとき。お風呂に入っているとき。結婚を申し込んだらOKされたとき。待ちに待ったプロポーズを受けたとき。飴を舐めているとき。レジが空いていたとき…………

 そんな場面で、『心はきらめく』のである。

 先程の説明ではピンとこない、漠然としすぎている、と思われる方には、こう考えてもらってもいい。

『ポジティブな気分全て』

 何か、何でもいい、とにかく貴方が多少でもポジティブな気分になったとき、その瞬間に、貴方の心はキラめいているのだ。

 心がきらめく瞬間を貴方は持っていて、そして心がきらめいている瞬間というのは、素晴らしいのだ。

 

 ――強引? 

 確かに、そうかもしれない。

 

 ――範囲が広すぎる?

 確かに、そうかもしれない。

 

 ――『心がきらめく』というのは、特別そうなことなのに、そんなに範囲が広くっちゃあ結局何の意味もないのと一緒?

 違う、そうじゃない。

 

 特別じゃなくても、いい。

 

 特別じゃなくたって、その『心のきらめき』は何か奇跡を起こせるし、また次のきらめきへの原動力にもなる。だから、どんなに小さいことで心をきらめかせても、それは一つ一つが大事なきらめきなのだ。

 

 ――作中に、こんな場面がある。

 メインヒロインである彩瀬なる(中2、小さくて可愛い。曲も可愛い。口癖は『ハピなる)の言う『幸せ』『ハッピー』という言葉がよくわからない、という顔を浮かべるりんね(年齢不詳。背が高くて美しい。神聖すぎて可愛いとかいうアレじゃないジンギスカン)に対して、

 なるは、いくつか言葉を捻り、そのどれも的確ではない、と悩みながらも、最後にはそのときのことを思い出してだろうか、幸せそうに『私は、ホットミルクを飲んでいると幸せ』と説明する。

 すると、それを聞いた、或いはその顔を見たりんねは、何やら嬉しそうな、少なくとも『難しくてわからない』という苦しいものではない、ポジティブな表情を浮かべる。つられて、なるも笑顔になる。

 勿論、なるの説明だけでりんねが『幸せ』という言葉について完全に理解しきれた訳ではないだろう。

 しかし確実に言えることとして、二人はその瞬間に『幸せ』――本題に沿って言い換えれば、『心のきらめき』を覚えたのだ。

 なるは、自分にとっての『幸せ』を、飾ることなくりんねに見せた。りんねは、なるという友達から、ストレートな『幸せ』の感情を受け止めた。

 そんなやりとりの中で、二人は、少ない言葉ながら、何よりも大きなものを交わしたのだ。

 このシーンの後から、りんねはなるの口癖である『ハピなる』を真似るようにもなる。心理学を引用するまでもなく、これはりんねのなるに対する『信頼』の表れであるに違いない。

 再度になるが、とある心のきらめきによって(発端は、ホットミルクを飲む、という小さな喜び。また、友達が親身に説明してくれる、というもの)、友達同士の信頼関係、という大きな結果、そして更なるきらめきが――という結果が生まれた。

 

 まさに、この描写こそが、Pretty Rythmにおける『心のきらめき』を表現した最たるものの一つなのだと、私は考えている。

 

 さて、長くなった上に、まとまりのない文になってしまった。

 読み飛ばすことなくここまで読まれた方はどれほどいるのだろう、と自虐的にも考えてしまう程だ。

 もしもそのような方が居たら、こう思って欲しい。

『最後まで、飛ばさずに読み進められた自分、ハピなる!』

 そして、その心を、ぞんぶんにきらめかせて欲しい。

 

 また、そうでない方であっても、である。

 今この文章を読んでいる、という事実に、どうか些細でも半ば押し付け気味でもいい。

 とにかく

『今自分は、幸せだ』

 そんな風に思っていただけたなら、きっと筆者の心もきらめくであろう。