雨に咲く花に

プリティーリズムとか、その他について書く奴です。

遠き恋人は月にて会えるか

 先に言っておきますが今回の記事はポエムです。

 

 ところでそのポエムという単語、及びそれが持つイメージについて一家言なくはないのだけれど、今はそういう話はしない。

 

 さて、この記事がどのくらいポエミィかというと、今自作のキャンドルの炎だけを頼りにこれを執筆している、というくらいだ。

 尤も、キャンドルの炎だけと言いつつどう考えてもディスプレイから放たれる光の方が明らかに光源としての役割を果たしているのだけど、どちらにしたって目に悪いのに変わりはない。

 大体のロマンチックは身体には悪い。

 

 表題の件であるが、これはどういう意味か、説明しておこう。

 

 例えば、会うのも難しい程遠くに住む恋人同士が一組、あったとしよう。

 彼らは当然、お互い会いたいと思いながら日々を過ごしている。しかし、前提条件に書いたようにそれは難しい。

 なれば、実際に会うことまではできないとしても、せめて何らかの感覚、感情等々を共有して、まるで共にあるかのような思いに浸りたいと、そう願ったとして何ら不自然はあるまい。

 

 そして、ここで現れるのが、月なるものである。

 

 月というものは、ロマンチックなもの、と言われて直ぐにこれを思い出す人も少なくはないであろう程度には重要なロマンチック・ファクターであり、太陽と対とされたり、星と並べられたり、はたまた満ち欠けの様子を何かに例えられたりなど、古代から現代に至るまで何億とロマンチックな場面に登場してきた強者だ。

 何故そこまで強力で居られるのかと言えば、まぁ一日の中で最も感傷に浸るのに向いた時間である夜に現れるものだからとか、そういう説明がつくのだろうか。

 そもそもロマンチックに理由なんてないけれど。

 

 月を見よう、と二人はどちらともなく言った。

 同じ日、同じ時間に同じ月を見れば、それはきっと隣で月を見ているのと同じことだろうと。

 いわば、月を通して二人は会えると、どちらもがそう考えた。

 

 ここまでは、非常に微笑ましく、そしてロマンチックな甘い思いつきだ。

 誰もが羨み、真似たくなるような、そういうタクティクスだ。

 

 

 しかし、実際、こうなってしまったら?

 

 片方(この場合、なんとなく男側ということにしよう)の住処で雨が降り、約束の日に、男は月を見ることができなかった。

  恐らく女は、律儀に約束を守り、今この瞬間においても月を見て、何かを感じているだろう。或いは、それを自分(つまり男)と共有しているような、そういう気分に浸っているだろう。

 ――月を通して会えたような、そういう気持ちでいるだろう。

 男は、女を裏切ってしまったような気分で、仕方ないこととはいえ女との約束を破ってしまった罪悪感で一杯になる。

 そんな折、女から連絡が届く。(古くを想像するなら手紙、現代ならLINEやメールだろうか)

 『綺麗な月でしたね』と。(ここの文言は、月に言及さえしていればなんでもいいのだけれど)

 さて、男はどうすべきなのだろうか。

 

 『同じ時間に同じ月を見ているだろう』と思い込み、且つそれによって会っているかのように、隣にいるかのように感じて、そして共感さえ求めてくる女に対して、男は事実を告げるべきなのだろうか。

 或いは、『そうだね』と見てもいない月の感想を、女と共有すべきなのだろうか。

 

 どちらであっても、何かしら問題があって、何かしら正義があるように思える。

 どちらを選ぶことも、或いは間違いなのかもしれない。

 そんな状況で、男はどうすべきなのか。

 どうすれば、二人は『月にて会う』ことを果たせるのか。

 

 さて、私がこの問題に完全な解決をもたらせるとは、考えていない。

 しかし、『月にて会う』ことを果たす、それを至上目的とした場合の部分解ならば、提案することができる。

 

 その部分解とは何の捻りもないアンサーであって、退屈なものなのかもしれない。しかし、一人のポエマーの思考実験の結果としてのそれ出来れば聞いて欲しい。

 

 見えることのない月にて、男と女が逢瀬を果たすために男が選ぶべき行動。

 それは、『綺麗だね』と返す、である。

 つまりは結局、嘘を吐く、ということなのだが、しかしここで大事なのは、男は決して『女を傷つけないために』嘘を吐いてはいけないということだ。

 或いはそもそも、嘘でないとすら言える。

 綺麗だったのが、月でなくて、雨の降る夜空であったとか、そういうことでもいいのだから。

 

 つまりなにかと言えば、ここで重要視されるべきなのは、『月を見た』という事実ではなく、『同じ時間に月を見て、そこで二人が会おうとしていた』という思いなのではないか、ということに尽きる。

 

 『月を見た』『月が綺麗だった』、そんな事実は、些細どころか、最も重要視すべきでないものの一つであるとさえ言える。

 というのも、そもそもこの二人は、『事実として会おうとした』のではなく、『思いを交わすことを逢瀬としようとした』のである。

 つまり元々重要視されていたのは、『思いを交わせるか』であって、事実などというものの介在は一切ない。

 

 『お互いが、同じ時間に、相手のことを思って、何かをしようとした』。

 それが、この二人にとっての『会う』であるのだ。

 

 そもそもの話、実際隣に居て、空間、或いは物質として同じ空、月を眺めたところで、それが『同じものを見て、同じことを思う』かと言えば、そうではない。

 かたや月そのものの輝きに心奪われ、かたや月にかかる雲の儚さに思いを寄せているかもしれない。総じて『綺麗だ』と表現して、同じことを考えていると錯覚しているに過ぎないかもしれない。

 しかし、その詳細が全く同じではないからと言って、二人が心を交わしていないかと言えば、そうではない。

 二人が共に『向こうも同じことを思っているだろうか』などと互いに思い合っているならば、それは心を交わす、ということであり、『遠き恋人』達の言う『月にて会う』ことである。

 

 さて、余りにも回りくどくなってしまったところで、(とは言え途中で何度も直接的に言っている気がするが)私が結局言いたいこと、というのを記して終わろう。

 

 恋人同士が、近くに居るにせよ、遠くに居るにせよ、それぞれが全く同じ感情を抱くのは難しい。

 だから、無理にそうしようとなどしなくてもいい。

 実際は違う思いであるとしても、二人が『心を交わしている』と思えるのならば。

 

 ――さて、こんなところだろうか。

 自作したろうそくの蝋は全く減る様子を見せない。

 それと、今日も月が綺麗だった。

 

 全く見えてなどいないけれど、それでも綺麗な月だった。