理系は喧嘩を売っている訳ではない
(※当記事における文系、理系というワードやそれに付随させているイメージなどはあくまでも当記事限定のものであって、便宜的に用いられているに過ぎない。つまり一般的な文系理系が全てこうであるとか、文系理系とはこういうことだとか、そういうことを決めつける気は一切ないし、読者諸兄においてもそのようなことは細分たりとも思わないで頂きたい。誠に勝手ではあるが、執筆者の語彙の不足の招いたことであり、全く申し訳ない)
まずは下のツイートを見て欲しい。
関係ないけどガチガチの理系にとって単なる会話の要素でしかない「矛盾の指摘」、「曖昧部の追及」がそうじゃない人にとって「喧嘩を売られてる」と取る要素になって喧嘩になるというケースままある。
— イトヲ志貴 (@wotanoshimi) 2016年4月23日
ここで言うガチガチの理系をアスペルガー症候群と言い換えても成立はするけど厳密には違う。
当記事では(今までの趣向と違い)、上のツイートで示しているような『喧嘩を売ってるようにしか聞こえないけどそれは理系特有のコミュニケーションかもしれない』ということについて、実際にあったかもしれない例と理系思考の解説を交えて説明していきたいと思う。
理系の子供と文系の母親の会話
ここに、理系の子供と文系の母親が居たとしよう。
母親がキッチンで料理をしていると、ふとトイレに行きたいと思った。(料理をするのが母親だという固定観念の押し付けだというご指摘に関してはご容赦願いたい。他意はないし全く別の話題であるが私は男性の家事参入を促進すべきだと思う)
丁度火を扱っていたので、そのまま無人にする訳にもいかない。
火を消そうか、と思っているところに子供が通りがかったので、こう頼んだ。
『火、見てて』
子供に火の番を頼んでその間に用を足そうと、そうしたのだ。
すると、子供はこう言った。
『見て、どうすればいいの?』
――さて、この例において、もし母親側に感情移入をしてらっしゃった方が居たとしたら、その内の殆どは子供の発言に何かしら苛立ち等を覚えたのではないだろうか。
しかし、子供は母親を苛立たせようとした訳では勿論ないし、何なら母親の料理を手伝おうという気は満々だったりするかもしれない。最低限の料理の常識も持っているし、母親の『火、見てて』という発言が『火の番をしてて』という意味だということも解っている。
ではなぜ、『どうすればいいの?』という言葉が口をついたのか。
母親側・子供側の思考
『どうすればいいの?』という言葉を子供が捻り出すまでに、実は非常に深い考察と母親に対する配慮があった、ということだけはまず説明しておきたい。
そしてそもそも、『どうすればいいか』を全く何一つとして推測できない訳でもない。
しかし、母親の『火、見てて』という余りに簡潔な指示には、子供にとって、以下のような要素が不足していたのだ。
- 沸騰したら火は止めるべきか?
- 止めないとしたら弱めるべきか?
- 止めるべきとしたら止めた後何らかの処置が必要か? ……等々
実際に想定している質問はもしかしたらそれ以上にあるかもしれないが、一先ずは。
(ところで上の箇条書きを見て解る通り、子供は流石に母親から『火を見続けること(Be seeing fire的な)』だけを求められている訳ではないと、理解していることを覚えておいていただきたい)
そんな訳で、子供は曖昧な部分が余りに多いため、母親に対して『火を見る以外にすべきことは?』という意図で質問をした。
母親からすれば(例えば火にかけられているもの、というのが水を張り、大根が入った鍋だとして)、沸騰したら火を弱めてもいいし、正直弱めなくても問題はないし、そして多分沸騰したら鍋の蓋をズラすくらいのこともしてくれるだろう、という思惑があったと思う。
つまり、子供が料理に対して少なくとも最低限度の知識は持っていて、その知識を活用して対処してくれるだろうと、そう思って『火、見てて』と依頼した訳だ。
しかしそこで『どうすればいいの?』という質問が飛んでくる。
恐らく母親はショック、或いは困惑しただろう。
何故か。『普通誰でも解ること』を『自分の子供が解らなかった』からである。
そのショック、困惑を、或いは用を足そうとしているのに余りに初歩的な質問をしてくるという事実又は『火、見てて』という表現をあざ笑うかのような質問に対しての怒りを、子供にぶつけることもままあるだろう。
そして子供は傷つく。
質問して当たり前のことを、必要なことを質問したら、怒られるのだから。
ここで思い出して欲しいのは、子供は何も、何をすべきか全く予想ができなかったわけでも、ましてや母親を傷つけようとした訳でもないということである。
寧ろ、子供が質問をしたのは『一般的にはこうすればいいのだろうけれど、もしかしたら母親は普段と違うことをしているかもしれない、自分の知らないことを知っているのかもしれない』という思いからなのだ。
(考えてみて欲しい。例えば貴方が掛け算を習いたての小学生だとしよう。ある日突然小学五年生ということにされて、大好きな先生に、最小公倍数の問題を解け、と言われる。勿論そんな用語は知らない。だから、『どうやったら解けますか?』と質問したら、怒られるのだ。『何故そんなことをわざわざ訊くのだ!』と。
ならば自分でやり方を予測するしかない、ということで、4と5なら20、2と3なら6が答えになることから、なんだ掛け算の答えのことなのか、と予想してやってみると『違うだろ! そんなやり方な訳ないじゃないか! なんで解らない!』と叱咤される。
この例での子供は、まさにその気分だ。)
――そう、考えてみれば当然のことで、母親が子供にどうして欲しいかなど、言わなければ解る訳がない。
さて、長くなってしまったため、多少の齟齬こそ発生し得るが、極めて簡潔に両者の思考をまとめたいと思う。
母親『子供は多分こうしてくれるだろう』
子供『こうするのがいいんだろうけど、違うかもしれない』
上で解るように、決して、お互い傷つけ合うような要素というのは一切持つつもりはない。
しかしそれでも、トラブルは起きてしまう。
それは、何故なのだろうか。また、解決する方法はあるのだろうか。
この例における解決方法とは
非常に簡単である。
そもそもこの問題の原因にあるのは、決して文系と理系の差異などではない。
勿論それも理由の一つではあるが、尤も悪とし滅すべきな要素としての『原因』は、
この親子が『ディスコミュニケーション』だったことである。
『火を見ていて』という指示が取り敢えず『火事にならないよう監視していて』という意味が含まれていることに関しては認めるとしても、沸騰したらどうとか、そういうことについては場合によりけりであるので、そこまで任せたいのであれば、それ相応の指示を付け加えるべきである。
つまり、母親にもしこの例について何か指摘してやれ、というのであれば
『指示は指示の体裁を整えて出せ』
と言う外ないだろう。(外なくはないが、この記事においては)
そしてもし子供についても同様にするならば
『何か間違っててもそんな適当な指示を出す方が悪いんだから、適当にやってしまえ』
とでも言うだろうか。
或いは
『「大根でも煮てるの?」みたいな訊き方なら怒られないよ』
とか。
ティーブレイク:アスペルガー症候群
もしかしたら、ここまでを読んで、『なんだ、理系というかアスペルガー症候群なんじゃないか?』と思った方も、もしかしたらおられるかも知れない。
確かに、今までに示してきた『理系の子供』が『相手の思惑を予想しそれに合わせての行動』をしなかったことだけを見れば、アスペルガー症候群的にも見えなくはないかもしれない。
しかし、それは違う。
何が違うのかと言えば、そもそもこの例において子供が教科書的なアスペルガー症候群兆候を示すとしたら(実際には人によって様々である)、会話はこのようになる。
母『火、見てて』
子『解った(火をずっと見てればいいんだな)』
――何が言いたいのかと言えば、今までに示してきた『理系の子供』の思考は『母の指示では曖昧すぎる』という判断から、『言葉の裏、行間を読んでの行動』を回避したが、アスペルガー症候群では『行間を読む』ということ自体が難しいのである。
因みにどちらにせよ母親の明確な指示によって解決できる問題ではあるのだけれど。
アスペルガー症候群、或いはその疑いがある人、或いはそうでなかったとしてもあらゆる人がもし、自分の指示に額面通りにしか従ってくれなかったとして、それ自体を諫めてはならない。
何故ならそういう指示しか出せなかったことが悪いのだから。
最後に
まぁここまで書いてきた中で言う『理系の子供』の思考の参考にしてるのは自分であってだから正直子供側目線な記事になってるな感は否めないしでも自分の有利になるようなこと書いてもいいじゃん的なパない。
因みに私自身、相手、つまり母親側を信頼していたら『大根煮てるの?』と訊いたりするしなんなら何も訊かず予想で行動する。
なんでそうするかって、そりゃ信頼してるから。
もしいつもと違う点があれば向こうから言うだろうな、とか。
あと信頼してない場合に何でそんなに質問したがるのかと言えば、責任を完全に逃れたいからです。
質問というのは究極の話責任逃れの手法として使える訳ですね。この場合の質問というのは実質的には確認である訳だけど。でも『こうすればいいんですよね?』と言うよりも『こっちとこっち、どっちをすればいいですか?』と訊いた方が責任からより強く逃げられる気がします。その分相手も不快感とか面倒臭さを覚えやすいですけど。
さぁてこの世の中というのは今まで書いてきたような『理系』にとって生きにくい世の中です。
何故か。
そういう性質が『面倒臭い』と評価される世の中だからです。
尤もこれは効率という観点から見て仕方ないと言えば仕方ないかもしれませんが。
更に言えば、もしこの世の中がそうではない世の中だとしても、結局理系にとっては生きにくい世の中なのかもしれません。
何故かと言えばまぁ、そもそも理系というのが生きにくいものだからです。
生肉を啜って生血を貪る。いきにくいいね。
以上です。